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2006年09月12日(火)更新

マカラマ大将


東京オリンピック(1964年)をはさんで、前後5年ほど、
私は大手商社の横浜支店におりました。
支店は伊勢佐木町の入口、吉田橋のたもとのビルの5階に
ありましたが、まだ高い建物は少なく、時には大桟橋に
接岸した「豪華客船」の煙突が望めたものです。

このような大きな客船が入港すると、しばらくしてビルの反対側
伊勢佐木町の入口にあるカメラ店の前に、アロハシャツや
派手な花柄プリントのおじさん、
おばさんたち(おそらく裕福なアメリカ人のクルーズ客)
がゾロゾロとウインドウを覗いたり、店に出入りしたり
しているのが窓から見えます。戦勝国のアチラにはこのように
船で世界一周などを楽しむ人がもういたんですね。

支店は「絹織物・生糸の輸出」が主な業務で、’60年代
の初頭が全盛、外貨獲得に大いに貢献しました。
北陸や奥羽産の羽二重や白生地、シルクオーガンジー、
桐生のジャカードやドビー織物、そして横浜の地場産業で
隆盛をきわめたスカーフやマフラーなどです。今は見る影
もなくなってしまいましたが。

支店に毎日のように顔を出す業者さんの中に、「マカラマ
大将」というあだ名をつけられたS山さんという人がいて、
その大きな体、でかい声、支店中にひびく笑い声と童顔で
人気がありました。こまめに女子社員にお菓子の差し入れ
をしたり、まだ自家用車などの少ない頃でしたから、休日に
自社の車をわれわれ独身の連中に気軽に貸し出してくれたり
したので、一層人気があったのでしょう。

「マカラマ」というのは、中近東かアフリカで女性が首に
巻くスカーフのようなもので、主にシルクジョーゼット
のプリント品です。これがある時期大量に輸出され、生産
が間に合わないほどで、商才に長けたS山さんは、生地
が薄くてスケスケなのをいいことに4枚ほど重ねて上から
一遍にプリントする、という禁じ手を使い、「マカラマ
御殿」を建てたというまことしやかな噂が立ったほどでした。

ほどなく絹やこれらの商品は韓国品などに押され、支店は採算
がとれないとの理由で’67年に閉鎖、社員は東京支社や別の
支店に移されるのですが、その後「モーレツ社員」とか、「午前様」
などという流行語が生まれたとおり、時代は一気に日本をGNP世界
第2位に押し上げていきます。

しかしあの「三丁目の夕日」的な、のんびりした支店時代を
懐かしむOB,OGの提案で、廃店から20数年後に同窓会が出来、
この15年毎年旅行会をしてきました。その名も「シルク会」といいますが、
先日最後の会を、我々がことあるごとに利用した横浜中華街の
老舗「華正楼」で開きました。もう幹事をできる人がいなくなった
というのがやめる理由です。私が一番若いのですが、地方におり
ますので無理はいえないということでしょう。
当初40数名の仲間の中には亡くなった人もおり、病床にあったり、
所用と重なったりで14名の集まりとなりました。

「マカラマ大将」S山さんも70歳半ばを越えているはずですが、元気に
ご出席、相変わらずの”ナイスガイ”は例年のごとく幹事にテーブルの
陰から「志」を渡して下さいます。「これをひとつ」、「や、や
これはどうも」おきまりのやりとりが長老幹事のオーさんと交わされます。
それからいつもの思い出話がテープレコーダーのように長時間繰り返
されて、みな頭は真っ白ですが、目は徐々に青年の輝きを取り戻して
いくのです。
我らの「オールウェイズ」です。