大きくする 標準 小さくする

2011年03月27日(日)更新

ブログ最終回・・「マザー・オワサ」

ブログ最終回、500号です。私には望外のカウント数10万近く、
一度でも読んで下さった方も含め、心から感謝、お礼を申し上げます。
また、この機会を与えてくださった久米繊維久米信行社長、お世話になり
ました日本実業出版社事務局の皆さまにもこの場を借りて厚く御礼申し上
げます。

1号目は父の話を書いたので、500号は母の話を書いてお終いにします。
どんな「ひいおばあさん」だったか、孫たちにエピソードの一つも残して
やるのも悪くないかも知れません。

+++

母は明治34年(1901年)生まれで、父より一つ年上の姉さん女房で
した。名を「をわさ」と言い、苦労して姉4人と私を育ててくれました。
私は1942年生まれですから、母が42歳の時の子というわけです。
頑張ったんですね(笑)。

姉たちは皆「お見合い」なのに父母は恋愛だったそうで、集まるとよく
羨望まじりのひやかしを受けてました。母がデート(!)がどんなだった
かを面白可笑しく話す横で父は・・あまり観察したことはありません。

働き者で義侠心が厚く、丈夫だったせいか病人や死人を怖がることがあり
ませんでした。いわく「死んだ人は何もしない。生きてる人の方がよほど
怖いワ」といってよく笑わせましたが、その生きてる人の面倒もよくみま
した。(特に病気の人を)

+++

物のない戦後すぐの時代、私が小学生のころ、時々母は朝早く唐草模様の
大風呂敷に自分の浴衣や肌着、タオルや食べ物を包んで地下足袋を履いて
出かけることがありました。親戚の病人の世話をしに行くのですが、父方
の方が多かったように思います。

当時もっとも多くまた恐れられた伝染病は「結核」で、「肺病」と言われ
ていましたが、農村では結核とわかると、敷地が広いですから母屋と離れ
た納屋みたいなところに移されます。食事といっても栄養あるものを特に
用意できる時代でもなく、家族が粗末な食事をおくと母屋に逃げるように
帰ってしまう、というようなこともあったようです。

+++

夏の暑い頃には、母は主屋から大きな羽釜(はがま)を借りてきて湯を
沸かし、病人に行水をさせてやり、髪を梳いてやります。
それから持ってきた古いものですが洗濯した肌着や浴衣に着替えさせます。
汚れものを洗ってやり、布団を干し、持参したものを食べさせたようです。

ある時母が「ほんならまた来るでの。気いつけねや」(福井弁)と、夕刻
帰り支度をして納屋の戸を閉めようとすると、布団の上に正座した病人が
こちらを向いて母に手を合わせていたといいます。

『をわささん、ありがと。ありがとのう。をわささんとこのみんなに悪い
ことがないよう願うているでの』。

この話は私が成人してから母から聴いたのですが、しっかりその時の口調
まで覚えています。
母の人助けのおかげでしょうか、私たちなんとか元気にやっております。

+++

母の口癖は「そんなことをしたらバチが当たる」、晩年は「コロコロッと
死にたい」でした。82歳の秋のある日、脳卒中で倒れ、意識が戻らない
まま3日後には他界しました。望み通りのPPK(ピンピンコロリ)でした
が、最後3年ほど痴呆症が出たのは、本人にはわからないことなので可哀
そうでした。

トイレ掃除もドブ掃除も病人の世話でもなんでも素手で平気でした。
「手は石鹸で洗えばきれいになる。病気なんてウツらん。」とでも思って
いたのでしょう。カナイもそんな母を尊敬し好いてくれていたようです。

あなたに尊称をおくります。いなくなって30年近くも経ってからですが、
マザー・テレサならぬ「マザー・オワサ」と。(笑)



          ************

       読んでくださってありがとうございました。
     今年に入ってブログを書き続けようか迷っていました。
     そんな心境でいるところへ東北関東大震災が起きました。
       「無常」を感じさせられる出来ごとでした。
      被災地ではありませんが、まだショックが抜けません。
      今はまず元気を出して仕事ガンバローと思います。
    いずれ、落ち着いたら「じいさんがばあさんに作るナントカ」
     というようなブログを書いてみたい、と思っています。
         その節はまたご訪問ください。

         ************

<忘れられない日の記録②・・山頭火の句に思う>

自由律俳句の俳人、種田山頭火は昭和11年7月、福井の永平寺に五日間
山籠しました。正門横の句碑に次の三句が刻まれています。

「水音のたえずして御仏とあり」
「生死の中の雪降りしきる」
「てふてふひらひらいらかをこえた」

 あの津波の水の中や降りしきる雪の中で息絶えた多くの人たち。
てふてふ・・ちょうちょは今まで私の中では一ぴきでしたが、今は無数の
ちょうちょが陽光に温められた大伽藍の瓦屋根をひらひらと越えていくの
が見えるような気がします。苦しみから解き放たれて。

もう少し暖かくなったら、永平寺へお参りに行こうとカナイと話しています。

 皆さま、今ある命と目の前の生活を大切にお暮らしください。

                          株式会社横山工藝
                             横山 国男

染型工房横山工藝プリントのことなら
【染型工房 横山工芸】
オーダーよさこい屋お祭り、太鼓の衣装なら
【オーダーよさこい屋】
オーダープリント屋オリジナル柄をお好きな生地に1mから
【オーダーぷりんと屋】

:::株式会社横山工藝:::
 オリジナル生地「オーダーぷりんと屋」布製品へのダイレクトプリント「PriX」
 横山国男社長ブログはまじい専務ブログ制作事例ギャラリー
:::オーダーよさこい屋:::
 2009年制作事例セミオーダーのご紹介よさこい屋店長ものづくり日記
 スタッフ日記なおくま店長日記日と月・エチゼンニッキ
<<  2011年3月  >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31